2009年4月23日木曜日

自然の化学的基礎レポート「ヒトはいったいどこへ行くのか、という問いに関して」

   ヒトはいったいどこへ行くのか、という問いに関して

 どこへ行くのか、という問いを考える際は、その考えられる対象が、どこからどのようにしていまの場所、状況の下にやって来て、そしていまどうしているのかという点を考えなくてはならないが、そのためにも、ヒトが他に比して特有にもっている文明について考える必要があると思う。
 文明は耕すことから生じるというが、耕すということが文明の基礎をなす労働であるならば、ヒトを人たらしめる根本は耕作だと考えられる。では耕作とは本来どのような営みか。それは、自然とどのように関わっていくべきか、ということを常に問い続けながら実践していく、そんな営みであるのではないか。それは耕地を広げるという意味だけではなしに、どのように水を引いてくるか、それにはどのような道具が必要となるか、などということを自然と折り合いをつけながらヒトが試行錯誤するプロセスの中でこそ培われ、そしてそうあってしかるべきものであったに違いない。だからこそ自然の大地はヒトを育て人にした母、人類の母であり、幼子が学ぶべきものすべてを教えくれるテキストとして描かれることが多いのではないか。
 そしてその自然の大地とはただ広くて平らなところというものではなく、さまざまなものが育まれ生存を許容される、多様性の空間そのものを指すにほかならない。
 つまり本来の文明とはあるべき空間のなかで根を張って存在するものであるべきものである。しかし利害や欲求といった別次元の要素が、その本来のあるべき空間的許容範囲に許容できる範疇を超えてしまったとき、イースター島での例のような悲劇が起こるだけでなく、そこに根付いていたはずの文明が失われると同時に、まるで強く根の張った草をひき抜いたときに土が根にくっついていてそのまま捨てられてしまうのと同じように、それを育んできた空間的要素までもが失われてしまうこともあるのである。
 今、文明という言葉はその育まれる空間が物理的にも心理的にも狭くなりつつあるなかで、イースター島のときと同じように、その本来の意味や在り方を十分に体現しきれていないような気がしてならない。
 空間的次元の狭まりは、精神的次元にも影響を与える。というのも、目に見えるところですらゆとりがないところに精神的なゆとりが生まれるとはとうてい思えないからだ。 だからこそ現在の急速すぎる空間的狭まりに恐怖を覚えずに入られない。
 「人間の土地」(サンテグジュペリ著)の冒頭にあることを踏まえれば、いまの文明がまず直視するべき障害は、どのようにして土地を耕せばよかったのかを忘れてしまっているか見失ってしまっているということ、そもそもその育まれるべき土地や土壌というそのものを知らないという根本的なものに他ならない。
 新たに土地を耕すための道具が、ヒトのこれから行くべき道を照らすといっても過言ではないだろう。

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