自然の化学的基礎レポート2nd
行政の責任の始点と終点、二点間の幅
色平卓郎
131111(ID)
問題となるべきなのは問題をただ単に知ることだけではなく、それをいかに料理して消化不可能な食材を消化可能なものにするかというその「実戦」とその方法である。そしてその食材はここに示されているように我々の生存を脅かすほどの毒素をもっていることもある。その場合、その毒素を取り除きながら、または無毒化して、いかに料理するべきなのかということが課題となる。これはまるで、ふぐを捌くがごとく資格を要するプロの仕事のように思われるがそれをあえて、強いてともいえるだろうが、「情報を得た市民」や「責任ある市民の参加」という形の上で実現しようというのが、民主主義とよばれるものであり、これが行政の基礎となるのである。しかしこれは食材を知らずしてすることのできないことである。
行政は一般に民衆に対して最も影響力を持つ機関のひとつだが、だからこそ民衆の参加が不可欠なものである。実際この問題に関しても、市民の行政への参加不足がその責任の一端とされている。では行政はいかにしてその責任を試行するのか。そのあるべき序章、始点に関しては示されている通りだが、その終着点としての終点とよべるものははたして存在するのか。
それはその始点の在り方次第であると考える。
民衆が行政に対して影響力を持つということは、その始点と方向(成分)を決めることができるということである。つまりいま民衆に求められているのは、その確固たる始点を定め、そこからベクトルの方向を決定するという作業であろう。そしてこのベクトルの成分は、我々の一般的に住む社会と同様の、4次元で規定されるべきである。その4つの次元とは、民衆の意志を基盤とした、合理性、実現性、弊害、時間である。しかし実際は、ある特定者の利益、という次元が加えられる。それはひとつの次元として機能し、その次元は強力な影響力を以て民衆が4次元的に規定する始点とそのベクトルの方向とをゆがめ、そこにあるべき方向性は見いだされなくなってしまうのである。実際、このようなゆがみは、本来規定されたはずの始点と終点との間の幅を捉えようもないほどに拡げてしまった。その証拠に、行政の取り組みがすべて後手になっているという現状がある。それはy=1/x→x=0が成立してしまうほどゆがんだ世界にも見える。それは捉えるべき次元を見失って、見るべき方向でないところからその世界を切り取り、正射影として見てしまうがゆえの帰結である。我々は適切な方向からその世界を切り取り、積分することでその全貌を明らかにしなくてはならないし、その繰り返しこそが民衆の義務である。そうすることで初めてその帰結として行き着く場所、終点を規定することができる。
しかしこれがあくまでも民衆の参加が規定となっていることを忘れがちである今、なお一層、その「硬い」壁に風穴を空け、その「向こう側」に新風を吹かせるヴィジョンを見る原動力、動機そのものが我々に求められているといえるだろう。ろくな調理もされずに出されることになる料理、そんなものを食されることになるのはどこの誰なのか、それを考えればそれだけでも動機としては十分なのではないだろうか。我々は目の前にある食材を知り、それからレシピ作りに取りかかるべきなのである。
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